
1944年8月25日。東京都豊島区高田第五国民学校(現・目白小学校)の6年生だった私は、上野駅から列車で長野県平穏村(現・山ノ内町)に向かいました。学童集団疎開です。
上野駅に見送りに来た母は、蒸しパンとちょこっとの砂糖を持たせてくれました。当時は物資不足が深刻で、粉も砂糖も貴重品。母がわざわざ調達してきたのでした。
どの家庭も似た状況だったと思いますが、親は子供がおなかをすかせてはいけないと、母も蒸しパンをたくさん作ってくれたのです。
疎開先に向かう前の最後の一食です。列車の中で満腹になるまで食べ、友達にも分けました。それでも蒸しパンが残ってしまった。
このまま疎開先まで持って行き、これから始まる集団生活で、自分だけ食べるわけにはいきません。だからといって、友達に分けるとなると、誰にどう分けたらいいのか、判断がつきません。
考えに考えた末、子供なりに未練を取り去るため一大決心をしました。残った蒸しパンを、なんと列車の窓から投げ捨ててしまったのです。
疎開生活では空腹感にさいなまれ、悲しい思いもしました。育ち盛りの子供が一緒にいると空腹感は増幅します。
ある日、すいとんが食卓に並びました。とろみのついた甘めのつゆがかかっています。一滴たりとも残すまいと、全員そろって皿をぺろぺろなめつくしました。
中流家庭で育った行儀のいい子供が多い学校です。本来ならば皿をなめるなど言語道断。でも、本当によくなめました。日頃は礼儀作法に厳しい先生も見て見ぬふりでした。
「あの大きな蒸しパンがあったら」。ずっと思い続けました。夢に何度も出てきたこともあり、死ぬほど後悔しました。
からの記事と詳細 ( 疎開列車で母の蒸しパン、最後の満腹…評論家・樋口恵子さん(89)[戦後76年 刻むつなぐ] - 読売新聞 )
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