房総半島の南の先に、相浜という、名も知らなかった漁港がある。幹線道路から細い道を海岸へと下りていく。漁師町らしい入り組んだ街路に「富崎ベーカリー」の看板が現れたとき、誰もがつぶやくだろう。「なぜこんなところにパン屋が?」。そこからさらに、人と人がすれちがうのがやっとという狭い路地を入る。普通の民家のような建物に、並んだ本格的なパン。ひっそりと、飾りも衒(てら)いもなく、ただ地元の人のために存在しているようなたたずまいが好ましかった。
パンを買い、私は坂道を足早に下った。外房の海を見ながら焼きたてのパンを食べたい一心で。
海岸に着いた私は「豆乳のバゲット」にかじりつく。たくましい麦の香りが鼻へ抜け、発酵種の野性の香りがそれを彩っていた。さらに潮風までもが鼻をくすぐってきて、香りは思いもかけず三つ巴(どもえ)となって、心を躍らせた。目の前には青い海。旅情は、こんなにもパンをおいしくするものなのだ。
ここに並ぶパンすべてが自家製の発酵種から作られていることを、店主の山崎誠さんから聞かされたときは、ちょっとした衝撃だった。ハード系はもとより、ふわふわのクリームパンやあんぱんまで。バラエティーに富んだパンを、市販のパン酵母(イースト)の力を借りずに作りだしているなんて。しかも、修業経験はなく、すべて独学だという。
話は10年以上前にさかのぼる。山崎さんの奥さんの夢は「牧歌的な農村でぽつんとパン屋をやること」。妻がパン教室で習っては家でパン作りするのを見ているうち、山崎さん自身がパン作りにはまった。自ら起こした発酵種で焼くいわゆる「天然酵母」のパン。だが、もともと、普通に市販されているようなパンしか食べつけていなかった山崎さんにとってそれは、「硬い、すっぱい、うまくふくらんでいない」代物だった。山崎さんは試行錯誤をはじめた。
「サッカロミセス・セレビシエ(パン酵母の学名)が発酵をうながしている。微生物ってどういうものなのか、調べはじめました」
酵母の働きを知ろうと、山崎さんが手にとったのは、パンと同じ酵母が作りだすワインやどぶろくの指南書。どうやったら酸味を消せるのか。お酒が、パンに比べて酸味を感じないことに気づき、水分を増やしてお酒のようにした液状の発酵種(ルヴァンリキッド)を作ってみると、酸味は消え、ふくらみも申し分ないパンができた。
種を起こしてからパンにするまで、実に4日。パン酵母なら数時間で終わる工程だ。「その分、発酵に長い時間がかけられる。パンは発酵食品。時間をかけたほうがおいしくなるんじゃないでしょうか」
たとえば、食パンの耳を噛(か)むと、旨味(うまみ)のある生地を焼きこんだときに特有の渋みがじーんとするのも、長い発酵のもたらす味わいだろう。ぷにっと沈んで、みずみずしさゆえに歯にくっついて、きゅっと音を立てる。伸びたと思ったらぱちんと切れる、このコシが気持ちいい。つれて、バターの風味もあふれだす。
「全粒粉のクロワッサン」は、素朴な魅力。層が厚めで、ざくっと弾ける。バターの風味も生々しく染みだし、生地にはやはり重厚な旨味を感じる。しっかりと焼きこまれることで、ふすまの香ばしさが活(い)きている。ざくざく感と相まって、まるでバタートーストが層になっているかのようだ。
最初の疑問「なぜこんなところにパン屋が?」の答えはこうだ。
「農村のほうも物件を探しましたが意外と見当たらなくて。この物件がたまたま出てきて、移住しました」
夢は農村暮らしだったのに、気がつけば海のそばでパン屋になっていたとは。人生はわからないものだ。
富崎ベーカリー
千葉県館山市相浜254
0470-28-0221
7:00~16:00
火・水・日曜休
フォトギャラリーへ(写真をクリックすると、くわしくご覧いただけます)
「このパンがすごい!」紹介店舗マップ(店舗情報は記事公開時のものです)
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からの記事と詳細 ( 「なぜこんなところに?」 房総の漁師町で出会った、野生香る本格パン/富崎ベーカリー - 朝日新聞社 )
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