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Friday, August 21, 2020

ぎふ財界人列伝 バローホールディングス スーパーの流行を確信 - 岐阜新聞

(1)プロローグ

 「もはや戦後ではない」という流行語を生み出した1956年度の経済白書。その2年後、バローホールディングスの中核で、スーパーマーケット事業バローの前身「主婦の店恵那店」1号店が、恵那市で産声を上げたのは9月12日のことだった。予備士官学校の同期生の大半が戦死する中で生き残り、戦後、家業の食料品店を継いだ創業者の伊藤喜美が36歳の時、生まれ故郷に開店した。

 創業時、高度経済成長期で「岩戸景気」が始まり、国民の所得が増えた時代。57年のダイエーオープンをはじめ、この頃イトーヨーカ堂、ジャスコ、ユニー、ニチイと、全国各地で次々にスーパーが立ち上がり、流通業の幕開けだった。

 伊藤は法政大生の時、太平洋戦争による学徒動員で仮卒業し、43年、陸軍中部第4部隊(岐阜68連隊)に入隊した。毎晩試験があり、猛烈な演習が終わった後は寸暇を惜しんで勉強した。合格した豊橋予備士官学校を経て、45年には「スパイ養成学校」と呼ばれた陸軍中野学校の試験に合格して入校し、防諜(ぼうちょう)、謀略、防報、宣伝の必須4科目を身に付けた。この経験が「店を運営するうえで役に立った」と振り返っている。戦争に翻弄(ほんろう)されたが、経営につながることもつかんでいた。

 戦争が終わると、伊藤は大井駅(現恵那駅)近くで父寛が営んでいた家業の乾物店を継いだ。「死に損なった」と自暴自棄になったこともあったが、「今あるのは余分の人生」と思い、仕事に打ち込んだ。しかし食料品は統制物資で自由な売買が禁止されていた。統制をかいくぐり、恵那特産の寒天や愛知県師崎産の煮干しをひそかに仕入れて売りさばいたこともあった。ポケットはいつも百円札でいっぱいだった。

 「内心、こんなことは、そう長くは続かないだろう」と思っていた。その頃、兄一夫に「まともな商売をやれ」と叱責(しっせき)された。一夫は戦地から戻り、肺結核で療養しており、亡くなる間際だった。この言葉に目が覚めた伊藤は商売の王道を歩む決意をした。49年、衣料品店「マルイ商店」に衣替えし、順調に業績を伸ばした。

 しばらくして、スーパーマーケットへの転機が訪れる。地元に協同組合恵那専門会が設立された。伊藤は理事長に選ばれ、箱根であった商業セミナーに参加し、米国で流行している販売手法を聞き付けた。セルフサービスのスーパーマーケットだ。米国の平均の店の広さは最低600坪(約1980平方メートル)以上の大型。当時の日本は、客が買いたい肉やみそといった商品を希望する分だけ量り売りする対面販売だった。セルフサービスの手法に刺激を受けた伊藤は「スーパーマーケット業態は必ず日本でも流行する」と確信した。

 スーパーマーケットの開業を決意した伊藤は、58年7月に株式会社主婦の店を設立し、社長に就任した。1号店の開店前、スーパーマーケットに地域の商業が壊されるとの声が相次いだ。伊藤の家には投書や電話で「おまえの家に火を付けてやる」、「子どもが無事に学校から帰れると思うか」といった脅迫もあった。

 商店街は商売の秩序を乱すと大反対で、地元の市場で商品を仕入れることはできなかった。伊藤は毎日2時間かけて名古屋の熱田市場までトラックを走らせ、鮮魚や野菜を競り落とす。そんな日々の中で、菓子や加工食品も名古屋の問屋を開拓した。

 ついに駅前商店街の一角で開店の日を迎えた。1日の営業を終え、売り上げを計算すると36万円もあった。当時大学生の初任給が1万1700円。伊藤は期待以上の金額に終礼で社員とともに社訓を唱え、号泣した。「『店はお客さまのためにある』を旨とし、商売の王道を歩み続けていく」と胸に刻んだ。

(敬称略)
         ◆
 ぎふ財界人列伝の第11弾はバローホールディングス。ともに挑戦を掲げた創業者と第2の創業を標ぼうする会長兼社長の経営に迫ります。

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August 21, 2020 at 03:45PM
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